
1.学位論文の内容の要旨
本論文は 色彩という現象 はそもそも如何なるものなのか そしてそれを基にし
た人間の 色彩経験 とはどのようなものでありうるのか さらには人間はそれをどの
ように言語化してきたのか などを中心的な視座としている
従来のいわゆる 色彩語研究 では 個別の言語が一枚一枚のカラーチップをどのよ
うな色彩語(colour term)によって言い表すか したがって色彩変化の連続体のどの部
分からどの部分までをどのような色彩語によってカテゴリー化するかを基本的な研
究対象としてきた しかし 日常において色彩は様々な 質感 を伴い また様々な様態
で立ち現れ 人間はそのような単なる色相を超えた複合的な色彩経験を個別の言語に
よって表現してきた そのような色彩経験のあり方が言語に反映され また他方では
言語の構造が色彩語の意味にも影響していると考えることもできる 本論文は 色彩
現象と言葉のあり方とのそのような関係について考察しようというものである
まず第 1 章では Berlin and Kay (1969)によるカラーチップのカテゴリー化という
方法論に批判を加え 色名の基本性ついての再考を試み それと語形などの言語の構
造との関連にも言及した また カラーチップは言うなれば 多様な現れ方をする色彩
現象から色相 彩度 明度のみを抽象化したものに他ならないが 日常的に人間が色彩
を経験する際 必ずその色彩を有するものの質感も同時に経験し また認識者である
人間がその色彩を時間的変化の中で捉え 仮に 観的な値にすれば 同じ色 であって
もその時間的変化に関連して別の色彩語にカテゴリー化することがあることも考慮ればならない 本論文では色彩と同時に伴う質感を 空間的コンテクスト 色
彩をめぐる時間的変化を 時間的コンテクスト と定義付けしている
第 1 章ではこのように色彩語と言語の構造との関わり(第 3 節)およびコンテクスト
との関わり(第 4 節 第 5 節)について論じたが 第 2 章では前者について 特に英語色
彩語についてどのような基本性あるいは基本性の度合いが考えられるかについて通
時的な面から考察する OE 色彩語の動詞形 名詞形 副詞形を Table 3 にまとめ
ME 色彩語が通時的に見て動詞形 名詞形 副詞形 形容詞形をどのようにして獲得し
てゆくかを Table 4 にまとめた。英語において このような派生形をより多く そして
より古くから持つものがより基本的な色彩語であると考える つまり 一般的理解に
従えば基本的色彩語とは色の連続体を最小の数の範疇に分けたものと言えるが 本章
では 特に英語色彩語の場合 色彩現象の様々な様態を表すことのできる多様な派生
形が人口に膾炙してゆく過程が その色彩語の基本性獲得の過程であると考える。
さて 第 2 章においては英語色彩語の派生形の一般的な傾向について述べたが 第 3
章では特に grey について深く考察する。現在の一般的な認識では grey は白と黒の中
間に位置する 彩色であり 輝き を表すような意味は持っていない しかしながら
このような中間的な性格ゆえに 特に古英語から中英語にかけての時期 有彩色の意
味があったか否か 輝き の意味があったか否かについてしばしば議論されてきた。
結論的なところとしては OE bwit および ME wbit ,との比較で考えれば OE grag
ME grei は第一義的に輝きの意味を表す語ではないが 反射や物質の色合いによって
もたらされる幾分か抑えられた光を不可避的に表していたと考えられるし そのためg および grei は 結果的 に色相を伴ったと考えられる。従って 色相的な意味は
それらの本質的な意味ではなく むしろ副次的なものであった
現代 特にニュートンによるスペクトルの科学的理解以来 我々は色彩を色相を中
心として理解し また色彩の 観的値を三属性によって抽象化して表している しか
し OE 期および ME 期において grey は flint, waves, steel など必ず何かについての
grey であり この意味で物体個別の経験であったのではないか ある物体の表面では
色相 明度 彩度 反射 肌理(手触り)などが混ざり合い ひとつの全体としての現象を
成している 色彩語を考える場合 我々はしばしば抽象的な色の概念で考えるが 色彩
現象にはそのような統合された性質があり 我々は色彩をそのようなものとして理解
する必要があるのではないか
第 4 章では特に中古 中世日本語のアヲとミドリについて論じた 従来のこの二語
に関する議論は ミドリがアヲの下位語であるとか 通時的に見てアヲがミドリより
も先行するなどといった 主にそれらが意味する 色相 に 点を当てたものだった
本章ではまず ミドリとアヲのそれぞれの従来的な意味での色相的な意味領域を史的
テクストを基にして探り その重なる部分が大きいがゆえに両者は同じ色相を指しな
がらも色彩現象の異なった様態に注目した表現なのではないか さらにはそれが語形
との関連を見せているのではないかという発想に基づいて論を進めた アヲはアカ
シロ クロと対照を成しながら アヲムという動詞形によって動的な意味を持ち しば
しば変化を表し 一方ミドリは形容動詞にしかならないがゆえに そのような関係か
ら独立し 静的 な含みをもっていた 新しい芽は アヲム によっても ミドリナリ 氏 名 山口 誠
学 位 の 種 類 博士(国際文化)
学 位 記 番 号 甲第3号
学位授与年月日 平成18年9月29日
学 位 論 文 題 目 Language and Colour Phenomena:
A Philological Approach
(言語と色彩現象—史的テクストをもとに—)
審 査 委 員 主査 愛知県立大学教授 犬飼 隆
愛知県立大学教授 宮原 勇
愛知県立大学教授 中村 不二夫
1.学位論文の内容の要旨
2.学位論文の審査の要旨
3.最終試験の結果の要旨および担当者ても表される アヲム が用いられれば 動詞であるがゆえに変化する過程が
注目され その変化以前の状態 逆の状態が想定される 一方形容動詞の ミドリナリ
はむしろ変化した後の ある状態に達した または変化が完了した結果に 点が当て
られている このように語形という言語的条件によってアヲとミドリは同じ物体の異
なる様相を表していることになる
本論文では 色彩現象とはそもそも何なのか という問いを基本に据えた それは
人が色彩現象を経験する際 際には何を経験しているのか という問いでもある
日常において色は必ず何かについての色であるというテーゼに従えば 色彩は 物体
に関わる(object-bound) ものであると言える また同時に 色彩が必ず何らかの状況
の下で人間の経験の材料になるとすればそれは コンテクストの制約を受ける
(context-bound) ものであるとも言える さらには 人間は経験を言語化してゆくこと
において 不可避的にその媒体である言語に制約を受ける(language-bound)と言え
色彩語もその例外ではないのである 2.学位論文の審査の要旨
審査委員会は 申請論文の意義と成果を次のように評価する 独創的な視点にもと
づき 理論と 証とを結合した優れた研究成果である 人が色という現象を認識し認
識を言語化してきた歴史を見つめたいという申請者の意図が明瞭に提示されている
論文の構成も わかりやすく周到に組み立てられ 使用術語や引用文献 の説明も行
き届いている
本論文は 色彩名は抽象的な色相表として存在するのでなく 常に 具体的な事象に
関する人の認識の仕方を言語化したものであることを強調し 色彩語彙は文化的なコ
ンテクストに支配されて言語の構造のなかに存在するという観点にたつ そして 色
彩語の 基本度 を考察する際に 基本的な語であるほど 多くの事象の様相をあらわ
し 所属する言語の構造に組み込まれる度合いが大きく 派生語を多く産出するはず
ではないかという仮設を研究の方法とする。その 証のために古代の英語と日本語の
blueとgreenの領域の色彩語彙を主たる対象にとって考察を展開している 研究史上
では 外界が色彩語の意味を規定するのか言語による切り取り方が意味を規定するの
かという論争において 後者の立場からの独創的な発言の一つに数えられるであろ
う
CHAPTERlで展開される理論的な考察は 色彩語彙に関する研究史を系統的によく学
び精確に理解した上で 妥当な整理を行い適切な指摘を加えている とくに 物理的な
色相が語彙を規定するとしたBerlin&Kay1969の所説に対する検証が綿密で説得力にそれをもとに 諸言語に関する多くの知見を論拠にとって自己の研究の方法論
を提示する
CHAPTER 2以降の 証では いずれもユニークな視点から の通った論証に成功して
いる CHAPTER2は 古英語OEと中期英語MEの色彩語彙を対象として 基本語は語とし
て必要度が高いから派生形の生産性が高かったろうという仮設による一貫した考察
に成功している。CHAPTER3ではOEからME期における色彩語greyの意味の暖昧性を対象
にとり 色彩語は常に具体的な事象に関する人の認識の仕方をあらわすという仮設に
もとづいて繊細な用例分析を行っている。色彩語の意味構造が輝度brightnessと彩度
saturationの区別から色相hueの区別へ移行する史的変化 blue領域の色相および明
度 彩度にかかわる語彙の相互関係 体系の空き間への借用語の参入という構造的な
把握が巧みであり 手堅い論証になっている CHAPTER4は英語のMEにあたる時代の日
本語を対象にとる あを が みどり の意味領域を包含していたという通説に異論
をとなえ 満たされた 言い換えると完成した みどり が空の色や新芽の形容に使わ
れ 基本語 あを は動向や感情の表現に使われたと結論付ける この新たな知見は通
説に再考をせまる価値をもつ
論考の内容に加えて 次の点に高い評価を与えたい 本論文は 基本的色彩語という
人類普遍的なテーマを扱い その 証のために英語と日本語とを取り上げて両者を見
比べながら考察している そのことにより 個別語だけを見ていては思い付かない斬
新な観点が示されている 一方で 色彩語彙の基本度をはかるには 英語では派生形の
生産性が重要であり 日本語では語形態の体系的構造が重要という 個別語の全体構違1anguage-specificに添った見解も示されている このように 研究の設定の
仕方そのものが本研究科の趣旨とする 国際文化研究 の博士号学位に好適であると
言えよう しかも 扱う対象が日英語の古文献上の用例であるので その読解に高度な
能力を要求されるが 申請者は充分な水準を示している 3.最終試験の結果の要旨および担当者
(試験結果の要旨)
本学学位規程第9、10条にもとづき 学位請求論文について審査を行い 平成18
年8月31日に学力の口述審査を行った結果、論文の内容、研究業績、研究に関する
見識ともに優秀であり かつ 今後に研究をすすめる能力も充分であることを確認し
た 博士(国際文化)の学位の授与は適当であると認められる 学位規程第11条にも
とづきここに報告する
なお、申請者は博士後期課程に3年以上在学し 所定の単位を取得しているので 外
国語の試験を省略した
報告番号 第 3 号 氏 名 山口 誠
試験担当者
主査 愛知県立大学教授 犬飼 隆
愛知県立大学教授 宮原 勇
愛知県立大学教授 中村 不二夫