浅谈村上春树作品中的生死观
村上春樹の作品における死生観について
要旨
村上春樹は日本でも中国でもよく知られている作家である。氏の作品は世界で人気があるといわれている。村上氏の作品の中に死生についての内容が大切な役割をする。本論文は村上氏の『ノルウェイの森』を中心して、村上氏の作品における死生観を検討したいと思う。まず研究意義と先行研究を説明する。そして、村上春樹とその作品を紹介する。それから、村上春樹の作品における死生観を研究する。最後に死生観を影響する環境を分析する。
キーワード:村上春樹;死生観;環境
摘要
村上春树在日本和中国都是家喻户晓的作家。他的作品在世界上有很高的人气。而且他的作品中关于生死的内容占了很大的比重。本论文将以《挪威森林》为中心,深入探讨村上春树的生死观。首先说明研究意义和先行研究,然后介绍村上春树及其作品。再次研究其作品的生死观。最后分析影响生死观的环境因素。
关键词:村上春树;生死观;环境
目次
要旨…………………………………………………………………………………2
摘要…………………………………………………………………………………3
1.はじめに………………………………………………………………………5
1.1研究意義……………………………………………………………………5
1.2先行研究……………………………………………………………………5
2.村上春樹と彼の作品について………………………………………………6
3.『ノルウェイの森』における死生観…………………………………………7
4. 「森」の環境の死生観に対する影響について………………………………10
5.結論………………………………………………………………………………11
参考文献……………………………………………………………………………12
謝辞…………………………………………………………………………………13
村上春樹の作品における死生観について
1.はじめに
1.1 研究意義
現代日本作家の中で、村上春樹と言ったら、知らない人はいないといえる。彼は 1979 年『風の歌を聞け』でデビューして以来、世間に高く評価され、たくさんの優れた小説を書いてきた。彼の作品は老若男女、日本国内外を問わず広く人気がある。その中で、一番人気があるのはやはり 1987 年出版された『ノルウェーの森』に違いない。村上氏はその後、出せば必ず売れる作家の一人に数えられるようになった。彼は 1980 年代以後の日本現代文学を代表する最も評価の高い文学者である。福田和也は、彼を夏目漱石以来、もっとも重要な作家と位置づけている。彼とその作品の研究は日本社会と現代青年たちの精神生活の研究に分かちきれないかかわりをもち、われわれがもっと日本社会と現代青年たちの生活、苦悶の理解に役立つに相違ない。特別に氏のの作品の中に人物の自殺することがたくさんある。例えば『ノルウェイの森』が直子やきすきの死を描いた。
1.2 先行研究
アメリカ文学から方法論を得て書き始め、主体と共同主観の関係を対象化しながら「ムラカミワールド」とも呼ばれる独自の文学世界を作り上げた村上春樹についての研究が早々から始められた。彼についての基礎研究は途上にあるが、全五巻の栗坪良樹 柘植光彦編『村上春樹スタディーズ』は、それまでに単行本、雑誌、研究誌、紀行など様々な媒体に発表された、村上春樹作品に様々な方向からアプローチした評論、研究を編纂したもので、村上研究の全体を見渡すことができる。
さて、数多い村上春樹に関する言説が生産されているが、その中で特徴的な動向を次のように概括することができる。第一、都市小説論である。もっとも早い時期では「都市小説」として村上春樹作品を捉えようとする試みが特徴的であった。『都会の感受性』を括りだした川本三郎、軽妙な表現の裏の現代のコミュニケージョンの限界という『暗い認識』を指摘する三浦雅土、それに『「故郷」を主題とした都市小説』として論じる渡辺一民はその代表的な評論家である。第二に、世帯論である。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』発表のころから多くなるのが「全共闘世帯」とも呼ばれる村上春樹の同世帯の論である。中でも目立つのは竹田青嗣と加藤典洋である。第三に、学際論である。「村上春樹現象」が発生するほど、読者数と評価が増大するに伴い、様々な分野からのアプローチがなされた。
村上氏自身の研究のほかに、彼の作品についても様々な研究が行われている。その中で、もっとも注目されたのはやはり『ノルウェーの森』であろう。『ノルウェーの森』についての研究は従来「恋愛小説」、小説の中の時間のずれ、小説に出てくる人物の人間関係、死などの方面にわたって行われてきた。竹田青嗣は「100 パーセントの恋愛小説」といわれる『ノルウェーの森』がむしろ恋愛を不可能にした小説だと論じている。遠藤伸治はこの小説の登場人物はみな「たとえ不完全な、ズレたものであっても、懸命に相手に向かって文章を書き、話し、歌を唄い、電話をかけ、性交し、さまざまな方法で自分たちの思いを語り、相手の物語を聞くことによって、自己を癒そうとしている。」と分析している。加藤弘一は『ノルウェーの森』がおびただしい打ち明け話によって出来上がっていると論を結ぶ。さまざまな人物が主人公「僕」に打ち明け話をすることによって自己の精神崩壊を癒そうとしている。中国における村上氏と『ノルウェーの森』の研究はまだ日本ほど活発になされていないが、これから必ず繁盛になってくるに間違いない。
2.村上春樹と彼の作品について
村上春樹は、日本の小説家、米文学翻訳家、エッセイスト、ノンフィクション作家である。1949年1月12日京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒、ジャズ喫茶の経営を経て、1979年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。当時のアメリカ文学から影響を受けた文体で都会生活を描いて注目を浴び、村上龍とともに時代を代表する作家と目される。
1987年発表の『ノルウェイの森』は上下430万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起き、以後は国民的支持を集めている。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』などである。日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人とする。2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。
デビュー以来翻訳の活動もしており、フィッツジェラルドの諸作品やレイモンド・カーヴァー全集のほか、多くの訳書がある。エッセイ、紀行文も多数である。
3、『ノルウェイの森』における死生観
村上春樹の作品世界ではデビュー作『風の歌を聴け』以来、おびただしい死が語られる。
ヒロイン直子にとってキズキの死は、姉の死の体験を反復することであった。姉が自分の部屋で首を吊り、キズキは N360 の排気ガスを車内に引いた。二人とも 17 歳で、自殺の素振りは全く見せず、遺書もなく、苦しみを一人で抱え込んで死んでいった。二人の死は、直子が「ひどい死に方」という「野井戸の話」そのものである。どこにあるのか誰にもわからない恐ろしく深い井戸に落ちて、その「暗くてじめじめ」した井戸の底で、誰かが見つけてくれる見込みもないままに「一人ぼっちでじわじわと死んでいく」死に方。そして直子もまた、そのような死をたどる。彼女は「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて」、キズキが暗いところから「おいナオコ、俺たち離れられないんだぞ」と求めてくる声を聴きながら、暗い森の奥で首を吊った。
もう一人の主人公、「生」の象徴とされる緑も、「死」に囲まれている。緑の父親も、愛するものを死によって奪われた存在であり、そして自分の愛するものと同じ死を反復する。緑にとっては、脳腫傷による両親の死は「最悪の死に方」である。死ぬまでにすごく時間がかかり、苦しみ抜いた果てに「最後の方は生きているのか死んでいるのか」さえわからない。気がついたら「まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような」状態である。緑がもっとも恐れる死のタイプとは、生きながら死者のほうに数えられることである。
緑は「まるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命感」を発散させる存在とされ、「その瞳はまるで独立した生命体のように」と形容される。それに対して、直子は「まるで月光に引き寄せられる夜の小動物のよう」であり、「瞳は不自然なくらい澄んでいて、向こう側の世界が透けて見えそうなほどだった」と語られる。直子は生きながらにして死者の世界へと足を踏み入れていたのであり、その対極にあるような緑は、死者に身を寄せる者たちによって傷つけられていく。
この小説が発売された時、著者自らが装丁した赤と緑の斬新なデザインが話題となった。その上巻の血を思わせる赤い色は生命力の世界を表し、下巻の深い森を思わせる緑色は死の世界を象徴しているのだが、各巻のタイトルなどは、それぞれ反対色で印刷されていて、こんなところにも「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という著者の考えが反映されているように思われる。
すなわち、「血を思わせる赤い色」は「生命力の世界を表す」とともに、「死」そのものの世界の象徴でもあり、「深い森を思わせる緑色」は「死の世界を象徴している」と同時に、「生」の世界の象徴でもある。このような認識があってこそ、この小説における、対極としてではない生と死の世界の正しい理解につながることができる。
主人公「僕」は親友キズキが死んだあと、死について新たな認識に達した。そのときの「僕」の心境を見てみよう。
そのときまで「僕」は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり「死」はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死を捉えることはできないのだ」と。それは「僕」には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向こう側にある。「僕」はこちら側にいて、向こう側にはいない。しかし、キズキの死んだ夜を境にして、「僕」にはもうそんなふうに単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極なんかではない。死は「僕」という存在の中にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れることのできるものではないのだ。
「生」の一部として「死」を考えるということは、俗にいう死の恐怖からその人間が解放されていることを意味し、「死」を必然的なものとして受け入れていることでもある。キズキの死は、直子にも「僕」にも、世界が破滅し、心が凍りつく体験だったに違いないのだ。そして破滅した世界を、凍りつく心を、虚無が浸していく。「僕」にとってキズキの死は、一人の友人、個人の死ではなく、至高の現実の消滅の体験ともいうべき出来事だったのだ。キズキの死から受けた打撃の深刻さは、直子のほうが「僕」よりもずっとひどかったはずだ。幼いときから兄弟のようにして育ち、「何がどこかの部分で肉体がくっつきあっているような」関係になり、「どういわれても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんてほとんど興味すら持てなかったのよ」という直子だった。キズキの死によって直子の心に広がった虚無は、「僕」にも、ほかの誰にも埋めることができなかったのだ。そして結局直子は自殺したのだ。「僕」、キズキ、直子という三角関係の中で、結局「僕」だけが生の世界に取り残されたのである。キズキが死んだとき、「僕」は死から一つのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。」
確かにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばなければならない真理の一部でしかなかった。直子の死が「僕」に教えてくれたのはこういうことだった。「どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強みも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ」。
直子の死によって、「僕」の「死」への認識が新たな段階まで導かれている。そのとき彼は「直子が俺の一部を死者の世界に引きずり込んでいった」と感じた。直子の死後、旅から東京へ戻った「僕」は、阿美寮での直子の友人「レイコさん」という女性に励まされるように、結局緑の世界(生の世界)へ戻っていこうとする。しかしこの道筋は、主人公にとって、「死」に対する「生」の優位ということを意味していないのである。すでに引用したように、『ノルウェーの森』の終わりで、「僕」は緑に電話をかけて「なにもかも君と二人で最初から始めたい」と話しかけるが、そこで彼は自分がどこにいるのかわからなくなる。彼は、直子の象徴する死の世界から身を引き剥がして緑の象徴する生の世界へ帰ろうとし、そのどこでもない場所の「真ん中から」緑を呼び続ける。
この小説の中で、直子とハツミさんが愛する人との別れによる深い欠落を埋めることができず結局自らの命を絶つことを選ぶ。緑と永沢さんは、それぞれ彼らなりの地獄を抱えながらもそれを凍結させ、封印して現実の中を生きている。レイコさんは内面の死の世界から現実の生の世界へ足を踏み出すことを決心した。そして「僕」は直子と緑という存在を通して自分の中に共存する「死」と「生」あるいは「内面」と「現実」という二つの世界の違和感に苦しみながらも現実の中で緑と成長していくことを選ぶ。
彼らを見ていると、生きるということは、そういった「死のコア」をも含んだ「生」の中で成長していくこと、孤独に闘い、傷つき、失われ、失い続けるとしても、それに耐える強さを身につけ存続していくことに他ならないのだと思われる。死んだものに対して、人々がどれほど無力であるかを痛感させられる。「死」は誰にとっても怖いものである。だが、この現実世界に生きるために、人々は「死」というものから何かを学び、戦い、強くならなければならない。「死」がいつくるかわからないこの現実世界で生きていくには、大変勇気が要る。
4. 「森」の環境の死生観に対する影響について
「森」という会意文字。もちろんそれは、「木」という象形文字を三つ組み合わせたものにほかならないのだ。木が三本で森。『ノルウェーの森』の中では、こうした「森」の三本の木の組み合わせのような、三角関係が、物語の構造の中心となっている。それはまず「僕」(「ワタナベ」)とキズキと直子という、高校時代の男二人、女一人の「三角」を形作り、それは次に緑と「僕」と直子、そしてさらにレイコさん-「僕」-直子という三角関係として変奏される。まさに、三本の木、「森」のような三角の図形が、作品のそこかしこに組み込まれているといってよいだろう。だから、『ノルウェーの森』は、一言で言ってしまえば、「僕」をめぐるさまざまな三角の形の「愛」の葛藤を描いたものなのである。そのような三角の関係によって、皆が苦しくなっている。この三角関係を脱するために、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という著者の考えが反映されているように思われる。
5.結論
前に述べたように、人々はスタイルの悲しい運命によって生成されて、"死"を死ななければならない排除することはできない。要約すると、私は村上春樹の小説は、"死"は村上作品基調としての"孤独と無力とある程度でリンクしたようになった。死は生の相矛盾するの面ではない、それで行為の一部分として永遠に存在して, 死んだ人に対して村上は、深い悲しみと懐かしさと感じる感情的な後悔が好きではない。"死"は人のものであるので、"死んでいる"あなたの死に関与する他の人がすることが最大の"孤独"である. "死"は、無駄にしない、ほとんどの"無力"何の極端ではない避けられない, 直接各ビューの終結のこのような観点から、著者は死の概念をはっきりして持っていない、彼は、唯一の"死"は悲しく、無力感を覚えるために書いた、特定の治療法は"死んでいる"ことができる与えていない態度やアプローチ。しかし、非常に多くの不確実性があるが、一つのことは肯定である。それは作者が人の死は避けられなくて、死から生まれた悲しみも何かの形で排除することはできないということを意識した。
参考文献
1.村上春樹.ノルウェーの森.講談社文庫上下、2004
2.酒井英行.『ノルウェーの森』の村上春樹.沖積舎、2004
3.笠井 潔.鼠の消失―村上春樹論.情況出版、1993
4.村上知彦.未だ死ねないでいる「神戸」のために.思想の科学1990
5.野松循子.村上春樹 音楽が語る.荻女子短大研究紀要、1998
7.吉田春生.村上春樹、転換する.彩流社、1997
8.村上春樹.風の歌を聴け.講談社、1979
9.酒井英行.『ノルウェーの森』の村上春樹.沖積舎、2004
10. 栗坪良樹,柘植光彦.村上春樹スタディーズ 01.若草書房、1999
謝 辞
この論文のテーマ、取材、技法などは先生たちのご指導を離れてはできないと思えばいいでしょう。また、資料を探すには親友がいて相談に乗ってくれて本当に助かった。論文を書き上げた今は、今まで、お世話になった人たちにひとつお礼をしなければならない。みんな、本当にありがとうございました。