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親の連れ子として離島の旧家にやって来た浜崎氏は、家族、島社会に溶け込み、参与するために様々な地位を身にまとったのではないか。
 図1 藍島の地図
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調査は、平成9年7月24日、8月21日、8月27日、9月4日、10月20日、11月7日、11月21、22、23日、12月3日の10回にわけて、主に1対1のインタビュー方式で行った。浜崎氏を中心とした数人の島民に、様々な角度から語ってもらった。会話の録音にはテープレコーダーを用い、適宜、メモや写真をとった。また、資料として浜崎氏の収集物(自分史)なども見せていただいた。

第2章 藍島
藍島は、小倉近郊の響灘に浮かぶ小島である(図1)。小倉から北西に12.3km、定期船で30分程の沖合に位置する。島は南北2.4km、東西は広い所で0.6km、狭い所で0.2kmである。また、海岸線は出入りが多く、干潮時には総延長18.4kmにもおよぶ(吉永1960)。島の大部分は農地と山林でしめられており(表1)、住居は本村に集中している。道路は、島を縦断するかたちではしっており、燃料、食料などの輸送に利用されている。島の中央部には貝島古墳群をはじめとする古墳45基がある。また、江戸時代には密貿易の異国船進入を防ぐため、異国船遠見番所なるものも設けられた。特に大泊にある遠見番所には石碑がたてられ、今もなおその面影を残している。
1618年、漁師の両羽十右衛門が最初の住人となり、その後現在のような集落が形成されていった(中村1980)。大陸に近いという土地柄からか、海賊船や密貿易船を監視するうえでも重要な役割を果たしたようである。
行政の区分は、明治22年板櫃、槻田、中井、馬島、藍島の5ヶ村が合併して板櫃村となり、大正14年、小倉市に編入され、昭和38年に北九州市となっている。
人口の動態については、終戦後は500人を越えたこともあったが、平成9年9月時点で115世帯、347人に減少している(図2)。その原因として、若者の島離れが挙げられる(中村1988)。
もともとは、半農、半漁であったが、現在では漁業が中心であり、(表2)農業は家庭菜園で、米、芋、麦、果実等を作っている程度である。職業構成としては、専業漁業66戸、兼業漁業16戸、自営業1戸、その他18戸となっている(日本離島センター1993)。
漁業の島だけあって、漁業協同組合が大きな役割を果たしている。組合員は90人であり、25才までの若者は、青年団を結成し、ボランティア活動や地域貢献活動を展開している。また40才までの男子は青壮年部に所属し、全国離島会議などの全国レベルの活動を行っている。
福岡県下にある8つの離島の中でも藍島は水揚げ高が5位でありながら、売上高は第3位にある。これもあわび、ウニ、サザエなどの原価の高い貝類に恵まれているためであろう(日本離島センター1993)。漁師はほとんど自分たちの船を持ち、12~1月にかけては素潜り、2~6月は刺網、7~9月は素潜りであわび、さざえ、うにを採り、10~12月は刺網でイワシを獲るという。
つづいて、人々の生活の様子についてふれる。小倉からの公共交通機関は、1日3往復する定期船だけである。この船は小倉丸といい、昭和44年に完成したものである。定期船の乗組員もまた藍島の住民である。ただし、島民のほとんどが漁師であるため、定期船以外にも、自分の持ち船で街にわたることも可能である。
観光客は釣り客が主で、夏には2万人近い人が訪れる(表3)。島内には3軒の日用雑貨店、4軒の民宿がある。また、定期船が人々の荷物を運搬する。1年前までは漁協経営の売店があったが、現在は職員不足のため休止状態にある。雑貨店では、簡単な食料品(ビール、ジュース、菓子等)しか揃わないため、人々は必要に応じて街に買い物にでる。郵便物は、浜崎氏が一手に引き受けており、小倉に出る際、島民の雑用(買い物、役所での書類提出、銀行での振込等)を代行している。
電気は、昭和42年に送電されるまでは自家発電で、夜の10時には電気が消えていた。水道は、昭和48年、海から汲み取る簡易水道がと、すぐ口に出てくるほどだ。
マラソン
現在はマラソンの講師として各地の小学校や老人会で講演会を開くことも多い浜崎氏だが、彼がマラソンを始めたのは今から20年前、50歳の時である。元来スポーツ好きだったのと、知人から福岡の大濠マラソンに出てみてはどうかと誘われたのがきっかけだという。
しかし、当時の彼はたばこを一日に4箱も吸うヘビースモーカーであり、練習も休み休みだったという。そんな彼が初めて出たマラソンで、それまでの自分を見直す転機になる出来事に遭遇する。
「とかいいよるけどそんなんもらっても意味がない。長い目で見たら、金がかかっても海をきれいにするべきだ。」
という。
彼は現在37才、奥さんは小倉の街の人である。漁業のこと以外にも語っており、
「毎週の第3土曜日、小倉で球場かりて野球するんよ。今まで負けたことはないけどのー、みんないっつもぎりぎりまで人数がたりんのよ。携帯に電話したらもう飲みよるんよ。試合終わったらもちろん飲みに行くよ。みんなで焼鳥屋のビールからにしたことがある。スナックなんかにアワビやサザエもって行くんよ、そしたらよろこぶのー。わしら自分の船があるけーいつでも帰れるんよ。」
「よー花嫁対策なんかしよるけど、藍島は街が近いせいか花嫁には困つとらん。」
都市に近い離島の生活がうかがえるような発言である。
4-4 島社会における人間関係
以上、代表的なる人を紹介してきたが、彼らは浜崎氏のことを、変わり者とは言いながらどこかで認めているふしがみうけられた。
彼ら3人を見て分かることは、それぞれが、なにかしら島社会において中心的な役割を果たしており、かつ非常な個性的な点である。かといって、お互いが争ったり牽制し合ったりしているわけでもない。むしろ島内での個人の役割を演じ分けているといえるだろう。例えば、島の歴史なら佐野さん、冠婚葬祭は上村さん、漁のことなら森本さんという具合である。まわりの人々の要望もあるのだろうが、本人たちも決して嫌々やっているようにもみえない。
このように、浜崎氏にかぎらず、ほかにも多くの肩書きを持つ人がおり、それぞれが個性的な人物であるという点は、島社会の共同体のありかたを考える上で大変興味深いことである。
考察
水難救助会、消防団、郵便局、危険物取り扱い責任者など、彼の仕事の変遷を追ってみると、そこにはひとつの共通点が見えてくる。それはすべてがいわゆる公的機関に準ずるような内容を持っており、資格などの問題もあって、誰もができる仕事ではないということだ。彼が常々「人がやらないことをやってこそ」ということからも、このことは証明できる。
彼は、島に母親の連れ子として来たのであり、しかも養子としてそこの長女と結婚している。まず浜崎家の長男として認められなければならない。そして、さらに島社会で認められなければならない。この2つを満たすために、彼は、誰もがやらないことに挑戦していったのではないか。そして、その基礎になったのが、軍隊生活ではなかったかと私は考える。軍隊の経験、人脈、これが結果的にプラスに作用したのであろう。
一つ不思議なことは、漁業が中心の藍島において、浜崎氏のこれまでの経験の中で、漁業に関するものはほとんどみられず漁協の役職にもついていない点である。他のものには独自性を求めるが、彼の口から漁業についてのこだわりが語られる事はなかった。彼は、藍島に来てからはじめて漁業を覚え、その将来に不安を感じたのかもしれないし、あるいは漁業では他の人々にかなわないと感じたのかもしれない。島で最大の組織である漁協にはほとんどかかわらず、むしろ、島の生活の福利的な方面、電気・水道・郵便・エネルギ-、娯楽といった、将来的に島に必要なものに目をつけ、着実に地位をかためていく。
こうした彼の先見性を他の住民たちも認めていったのだろう。彼が島社会に参与していく上で重要視したのは、「独自性」であり、その結果、仕事以外のマラソンやアコ-ディオンといった趣味によってみずからの存在意義を見いだすのである。彼の部屋にある賞状、日記、それらは彼自身の大切な生きてきた証拠なのであろう。
私は、当初、彼の持つ肩書の多さに注目し、肩書きをもつことで彼は島社会に参与していったのではないかと考えた。たしかに、それは間違いではなかったが、分析するうちに表面的な事実に過ぎないということが分かってきた。彼は、島において、誰にも真似できず、将来性があり、人々の信用を得られるものに目をつけた。それが消防であり、郵便であり、水難救助である。
先ほども述べたが、藍島では「島の歴史といえば佐野さん」といった、いうなれば個人を代名詞化する傾向がある。浜崎氏も現在至るまでに、「○○といえば浜崎氏」というものを数々作り上げてきた。郵便、消防、マラソン、アコーディオン等々。浜崎氏にこのような代名詞が使われるということ自体が、彼が島社会において認められていることにつながるのである。個人の役割が公に評価されがちな小さな島社会において、彼は自らの役割を人々にはっきり認識させたのである。
「誰もやらない独自性を追求すること」、「自分の役割を人々に認識させること」。浜崎氏は島社会の特徴を理解し、人々の信頼を得ることで島社会に確固たる地位を築いてきたと考えられる。
謝辞
本稿を作製するにあたっては、たくさんの方々にお世話になるとともに多大な迷惑をおかけいたしました。
まず、本論文の対象にさせたいただいた浜崎俊和氏には、お忙しい中、長期間にわたり調査にご協力頂きましてありがとうございました。調査をすすめていくうちに浜崎氏の生き方に私自身大きく影響され、つねに前進する姿や物事を記録していくことの大切さを学ばせていただきました。
また、島に滞在中、藍島の森本一秀夫妻、森本さんのお母様には、いろんなものをふるまって頂きました。島の人を紹介していただき、漁にもご一緒させてもらいました。
島の歴史をご指導くださった佐野清一氏、漁協会長の上村博利氏からも大変重要なお話をうかがうことができました。朝早くから貴重な時間をさいて下さり、感謝しております。
北九州大学文学部学ゼミの山中さやか様、白武佳子さんにも、力になってもらうと同時に大きな負担をかけてしまいました。私の配慮が足りなかったことをお詫びいたします。
ライフヒストリーを学ぶにあたって、同大学文学部、比較文化学科の重信幸彦助教授には参考文献などを紹介して頂きました。その後の作業を進めるるうえでも大きな指標となりました。
文章作成にあたっても、数々の方にお世話になりました。ワープロを貸して下さったモスバーガーの下田邦子さん、ワープロを教えていただいた、国立小倉病院の猿渡マリコさん、北九州大学人間関係学科の具志堅伸隆君にも、夜遅くまでつきあっていただきました。
最後になりましたが、私の指導教官であり、文学部助教授の竹川大介先生に、ふたこと、お礼を述べたい思います。フィールドワーク研究ということで、不慣れな面もあり、色々ご迷惑もおかけましたが、実際やってみると想像力をかきたてられ、自分にとっても非常に貴重な体験でした。これまでは、なにごとも中途半端な自分でしたが、この論文に取り組んだことで、何かが変わりました。本来の自分の姿を取り戻したとでも言いましょうか。
今まではやるべきことさえからも逃げていた私ですが、今回に関しては、求められる以上の事をやってやろうという気になったのです。「好きこそものの上手なれ」という諺があります。私もこれまでこの考えを信じており、どこかで自分のからにとじこもっていた感がありました。しかし、今回あえて自分には向いてないと思いこんでいた、フィールドワークに取り組むことにより、真の意味での充実感を味わうことができました。その意味でも、私にこのような試練を与えてくださった先生には深く感謝しております。
以上をもって謝辞とさせていただきます。